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「曖昧な死、明るい未来、新しい世界」

​綾門優季

 2022年、自殺者数が増加した(※1)と聞いて、まさか、と考える人は少ないだろう。先の見えないコロナ禍が否が応でも長く長く続き、死はぼんやりとして、身近なものになった。子供の頃に「いつか死んじゃうなんてしんじられない」と言って親の前で泣いた記憶が朧げにあるが、戻ることの叶わない、幸せな時代だったとしか言いようがない。私はそのとき、私が死ぬことをありえない、とても遠いもののように捉えていた。今は残念ながら、全然信じられる。実際、コロナ禍の間に知人が亡くなった。最後に顔を合わせたのはZoomだった。コロナ禍であるがゆえに、葬儀は家族のみで行われ、私には、葬儀はすでに終わっているという情報しか届かなかった。私が好きだったバンドのボーカルが亡くなったとニュースで知った。新曲が発表されないことで、緩やかに死を受け入れていく他になかった。死は劇的なものではなくなり、自殺は遠くの出来事ではなくなった。


 コロナ禍に入ってから、作風が変わった劇団はいくつかあるが、譜面絵画もそのひとつだと考えている。具体的には、自殺や事故など唐突に齎される死への言及が物語の中に必ず入ること、そこで呈示される死のイメージが必ずしも暗いものとして描かれないこと。はじめて譜面絵画を観たときから、明確に変わった部分である。譜面絵画『花の咲かない原因と対策』(2022年、アトリエ春風舎)とある程度共通したモチーフを取り扱いつつ、夢幻能の形式を取り入れたこと、俳優が舞台上からたとえ退場したとしても客席からずっとその姿がみえてしまう、BUoYという特殊な劇場をはじめて使用したことで、死者も生者も常にその場に漂っている状態にしたのは、『幻幻幻幻と現現現のあいだ』というタイトルが示唆するとおりの「あいだ」が、現出し続けていたと言えるだろう。


7 なんの話?
4 いや、つまりは、何を、どれくらい、信頼してるんですか?
7 何を聞きたいの、
4 リアリティあります? 人生に。
7 逆にあるの?
4 感情の手前の話をしてるんですけど、


(三橋亮太『幻幻幻幻と現現現のあいだ』
狂言「Hypocenter/ハイポセンター/爆心地」より)


 閉店してから子供服の返品に来た客と新人店員の言い争いの一部である。会話は平行線で、店長が止めに入るまで遂にうまく噛み合うことはなく、お互いの言いたいことが十全に伝わったとは到底思えない。これはお互いがリアリティの根拠をどこに置いているかが最初から大きく食い違っていて、お互いがお互いのことを「私よりも不安定な人」であるように認識しており、その齟齬が最後まで埋まらないままだからだが、このシーンは、明らかな死者として登場する人物の語りよりもよっぽど、濃厚な死の気配が立ち込めていた。それは観客が目の前のことを現実として捉えるために最低限必要なリアリティの土台の部分が、段々と崩されていく会話だったからではないだろうか。それはたとえば、コロナ禍に入ってから、あからさまに非現実的であるようにしか捉えられない陰謀論を、本気で信じている人とそうでない人とでは、同じ世界を生きているはずなのに、全く違う世界がみえてしまっていることに、目眩がするほど不安な感覚に襲われることとどこか似ているものである。

 

 この演劇は、能「Magic/マジック/魔法」という、ちょっとどうかしているとしか思えないほど明るいラストシーンで終わる。このシーンの登場人物は、全員死者であることがセリフの中ではっきりと示されるが、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、適当な、その場で思いついたおふざけとしか呼べないような茶番が次から次へと演じられては、すぐに忘れ去られていく。同じく集団自殺を扱った演劇としては、東京デスロックの代表的な作品である『再生』を想起するが、圧倒的な生命力、強烈な肉体に打ちのめされてしまうあの上演とは異なり、譜面絵画『幻幻幻幻と現現現のあいだ』は、ただただ曖昧で、弱々しい。声も姿も目を離した隙に、溶けていってしまいそうである。しかし、そうすることによってしか現れない、リアリティが宿っているのも、また確かだ。

 

現実であるかもしれないし、幻覚であるかもしれない曖昧な世界。生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない曖昧な世界。ひどく幸せなようにも、ひどく悲しいようにも思える曖昧な世界。それは良くも悪くも新しい世界の幕開けを告げるもので、好きも嫌いも関係なく、私たちがこのあと、生きていかなければならない、コロナ禍のあとの世界なのである。


1
自殺者数が2年ぶり増 複雑化する相談 コロナ禍影響、生活の隅々に
https://www.asahi.com/articles/ASR1N74K9R1NUTFL017.html

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