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体験(ライブ性)について

更新日:2018年11月15日

三橋です。一週間ぶりです。

本日は、体験(ライブ性)についてを書いていこうと思います。

どちらかというと覚え書きのようになってしまうかもしれませんが、書いていきます。


個人的な話から始めると、「今ここ」というようなことが薄まっている感覚があります。自分が自分で居ないような感覚や、自分以外のこと全てに距離を感じてしまう。世界で生きていることが浅いというか、ふわふわしている感じ。をたまに感じます。

ですが、この要因を考えた場合、普段から摂取している刺激が強く免疫が付き、それより上の刺激ではないと刺激ではないと思うように、感じにくくなっているのかもしれないとも思います。疲れているから~や、脳の機能が~みたいな事だけではないような気がしています。


この前読んだ美術手帖に、岡田利規さんが「映像演劇」というものを作ったときに考えられた、映像と演劇の違いについてのインタビュー記事が掲載されていました。それが、自分の中で抱えていた映像と演劇の違いについて答えを与えてくれたようで、とてもしっくりきました。コピペは剽窃になるのでふわっと書くと、

「観客が観る場所で起こる、現象のフィクションが演劇であり、例えば映画を観ている観客はスクリーンの中を観ており、凝視する対象が違う。」

というようなことが少し違うかもしれませんが、書かれていました。

究極、俳優が居なかったとしても、現象が「今ここ」で立ち上がればそれは演劇・演劇性と言えるのでしょうか。


バーチャル(仮想)について。

主にVRとリアルの関係性についてです。

現実とは別の存在として、仮想というものがあります。

仮想現実はVR、拡張現実はARです。VRやAR以外にも、MRやSRなどがあるようですが、まだ全然考えられないです。

ここで考えられることは、仮想通貨や、e-sportsなどを代表する仮想世界にライブ性(体験)は伴っているのかいないのか。いないのだとしたら何が違う・足りないのかを知りたい。

演劇などの作品を鑑賞している時の想像とは、違うのか同じなのか。

このような想像ということなら、演劇は古来からしているはず。

テクノロジーは想像力を省略している?


「今ここ」という感覚はどこから訪れるのか。

五感が伴えば、現実なのか。

酔ったりしなくなったり、画質を良くしたり、風を吹かせたりといったことを、VRが克服したら、その中での出来事は現実であり「今ここ」になるのか。

ヒントが欲しくて「今こことは?」とググったらスピ系のサイトがたくさん出てきたんで、色々読んだら、言葉に囚われているだけにも思えてきました。

それでも「今ここ」や「生きている実感」のようなものが体験(ライブ性)には重要ではあると思っています。



今回は以上です。

疑問ばかり浮かんでしまいました。

次回更新からは、来年2月の公演に向けた創作日記が不定期で始まります。ぜひよろしくお願いします。

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